『帰宅願望』。介護施設でよく耳にする言葉だ。
Aさんは介護施設に入居している認知症の患者さん。ある日、施設のスタッフから相談を受けた。「最近Aさんの帰宅願望が強く、今日も柵を乗り越えあやうく大けがをするところでした。目が離せません。薬で何とかなりませんか」。
家に帰りたいというのは、誰もが持っている自然な気持ち。その表現や行動に問題があるとはいえ、患者さんの帰宅願望は尊重すべきだと思う。「そんな時は家に連れて帰ってあげて」と私は返答した。薬での対応を期待していたスタッフはその答えに少々不満顔。
翌日、そのスタッフから電話が入った。「あまりに帰宅願望が強いので、先生の指示通り、さきほど自宅にお連れしました。いま、大変なことになっています」。受話器を通して私への不信感が伝わって来る。患者さん宅に向かった。
Aさんはかなり興奮していて表情も険しい。大声で「家に帰る。家に帰る」の繰り返し。そこが自分の家だと認識していないのだ。近所の人が心配そうに寄って来て、「ここはAさんの家よ」と諭すものの、聞く耳を持たない。困り果てた家族から「おとなしくなる薬を」と求められ、やむなく、鎮静剤を好きなポカリといっしょに内服してもらった。
小一時間が経過し、薬が効いたのか疲れたのか、Aさんは眠りに入った。家族と施設のスタッフもホッと一息。
自分の家が分からないくらい認知症が進んでも「家に帰りたい」という心情は残るようだ。それは形のある「家」ではなく、心の中の懐かしい「家」であったり「故郷」のようなものかもしれない。
施設で生活する認知症患者さんの帰宅願望は、家族や施設のスタッフを悩ませる。しかし、患者さんの「家」への思いも大切にしたいと思う。
画 植田映一 尾道市向島在住
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