今年の夏、60歳代のある女性から往診依頼があった。がんによる激痛で眠れない日が続き、食事もほとんど摂れていない様子。
訪ねてみると、大きな家に年老いた母親と二人暮らし。トイレに行くのがやっとで、風呂には1か月以上入っていないのだとか。母親も身体が不自由で、とても娘の介護など出来る状況ではない。
私が入院を勧めると、彼女は自らを「気ままな性格」と評し、「入院生活はこりごり」と自宅での療養を強く希望した。
早速、医療用麻薬を中心とした痛みの治療を開始することになった。訪問看護師やヘルパーに医療、生活面での支援をお願いした。
ところが、鎮痛剤を増量しても思うように痛みが緩和されない。次第に衰弱が進み、床ずれの処置が必要となった。もはや、在宅医療は限界と思われた。音を上げたのは母親と私。それを見て、彼女も渋々入院に同意した。季節はすっかり秋にかわっていた。
入院の前日、最後の往診。「お役に立てず申し訳ありませんでした」。私が一礼して部屋を出ようとしたところ、彼女の口から「ギョ―」という大きな声。彼女が恐る恐る指差す先には、季節はずれの巨大なムカデ。怯える母娘。その場に居合わせた私に視線が注がれた。
殺虫剤のスプレーなど気の利いた武器はなく、割り箸と新聞紙でムカデと対峙することに。10分間の格闘のすえ、何とか仕留めることができた。
彼女が私に向けて「ありがとう」を口にした。その時、初めて彼女の笑顔を見た気がした。正直、嬉しかった。本業ではいいところがなかったけれど、これも在宅医の仕事のひとつと割り切ることに。
母親が玄関先まで見送ってくれた。これほど安堵した母親の表情も初めて。明日からの入院生活が、母娘に吉と出ることを祈りながら彼女の家を後にした。
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